顔が好みの昔の知人に言い寄られる夢を見た。「生活さんって恋人いないんですか?」「顔が可愛いから、付き合ってみたりしてもいいかな〜って」と猫撫で声で囁かれる。これが抑圧された願望であったなら、己の醜さに心底辟易する。フロイトよりもユングの方が好きなのだけれど、拡充法を用いてあれこれ考えられる程に神話や元型イメージに明るくない。あんたほんまに心理職なんか?
微睡の中、SUPERCARの解散ライブの音源から『Sunday People』を再生する。音楽の巧拙はよくわからないが、彼らの楽曲は好きだ。近年ではKoji Nakamuraバンドで演奏されることもしばしばあり、それはそれで味わい深いものなのだが、やはりオリジナルは良い。
件のKoji Nakamuraバンドの音源 こちらも良い
Koji Nakamura繋がりで、ゆるめるモ!の『もっとも美しいもの』を流す。10年代前半のLAMAっぽい打ち込みの音と、抽象的なフレーズのリフレインが印象的ないしわたり淳治を想起させる歌詞、ようなぴのナカコーを思わせる気怠げな歌唱、全てが良い。いつかナカコーにセルフカバーしてもらいたいと願い続けているが、一向に叶いそうな気配がない。
ゆるめるモ!の『YOU ARE THE WORLD』のツアーファイナルの音源を聴く。SUPERCARと違い、ゆるめるモ!の曲を聴くと感傷的な気分になる。メンバーと年齢が近く、彼女達がアクティブだった時代を知っていることが、そのように思わせるのだろう。
ゆるめるモ!を初めて生で見たのは2015年の冬、立誠シネマで『女の子よ死体と踊れ』という映画の舞台挨拶だった。この映画はグループありきで作られた所謂アイドル映画で、グループに興味のない人からすればB級どころかC級の作品だろうが、ファンが観る分には十二分に面白いものだった。16年夏に卒業したちーぼうともねちゃんの演技が揃って面白く、もねちゃんは女優を目指しているということを以前から公言していたので、この人大丈夫か…?と思ったことを覚えている。あと、けちょんが作中で使用していたヘッドフォンが、わたしの出演作で使った小道具と同じフライングタイガーのそれで、親近感を覚えたり、安く上げてるなあと思ったりした。
舞台挨拶で壇上に上がった6人のメンバーが2本のマイクを司会から手渡され、代わる代わるマイクを渡していくのかと思いきや、あのが握ったマイクを離さないので、残りの5人が1本のマイクをリレーする姿が非常に印象的だった。物販でサインをしてもらった際に、舞台上では見ている側が心配するような振る舞いを見せていたあのが「ありがと」と辿々しくも言ってくれたこと、けちょんとしふぉんがファンサービスに熱心だったこと、特に好きだったちーぼうの対応がかなりあっさりしていたこと、全てが忘れられない。全てと言っておきながら、ようなぴともねちゃんのことはすっかり忘れてしまっているが。帰り際に、抽選会でサイン入りポスターを当てたファンが、「遠方から来ていて綺麗に持ち帰るのが困難だから」という理由でポスターを譲ってくれた。ゆるめるモ!のファンは親切な人が多いと聞くが、きっとそうなのだろう。今ならTwitterのアカウントを尋ね、何らかのお礼をしていただろうに、当時はそんなことにも気が回らず、突然の申し出に戸惑いつつも謝意を述べることしかできなかった。
2015年12月28日 今は亡き立成シネマの前で
それにしてもあのは売れた。2015年に橋本環奈とあのの写真を対比させたアイドルファンツイートがバズってから、あののTwitter上のフォロワー数は爆発的に増えたように記憶している。ゆるめるモ!が精々3万程度のフォロワー数であったのに対して、あのが倍以上のフォロワー数を獲得していたあたり、グループには興味を持っていないがあのは好き、というような人達が多数いたことが窺える。そういった潜在的なファンをモノにすることが出来ないまま、いつまでもネクストブレイクの位置から脱することが出来ず、最後の手段としてあのをソロで売り出したのが19年頃で、その年の夏にあのはゆるめるモ!を脱退。ライブアイドルシーンの一時代が終わったような気がした。以降の彼女は、King Gnuの女として妙に名前が売れてしまったものの、水曜日のダウンタウン以降は時代の寵児のような扱いを受けている。ような気がする。しゃべくり007に鳥居みゆき的色物枠として出演し、パフェの早食いをさせられていた頃とはえらい違いだ。メジャーデビュー時の不穏な経緯等、気がかりな点が無いとは言えないものの、表現以外の手段で生きていくことが難しそうな彼女が、それでご飯を食べていけるようになったのだから、これは喜ばしいことなのだ。願わくば、彼女の自由な表現が制限されませんように。
ゆるめるモ!の曲を聴いたり、彼女達のことを考えたりしていると、2014-2017年頃のような気分になる。これはわたしの好きなメンバーがグループに在籍し、彼女らの曲を熱心に聴いていた時期とぴったり符合する。生きていて、それなりに楽しかった頃だ。あのは、わたしにとって希望なのだと思う。彼女は、一見すると自由気ままなようで、そのようにしか振る舞えない人で、自己像と社会からの要請のギャップから、世界とうまく交われない苦悩があった筈だ。そんな彼女が、今やあらゆるメディアで引っ張りだこになっている。大袈裟な言い方をすれば、社会が、世界が彼女を求めているのだ。そのような中で、少しずつ形を変えながらもあのらしく振る舞う彼女から、懐かしさを感じたり勇気を貰ったりしている。
先述の『もっとも美しいもの』には、以下のような一節がある。
いつの日か あらゆる花が咲き
美しくなるなら
歩みを
とめるな
とめるな
とめるな
私よ
とまるな
とまるな
晴れ間がある わずかな 歌声
喜びには まだ遠いようでも
目を閉じるな
あのが歩みを止めなかったことによって、変わりつつある社会がある。アイドルは卒業した彼女だが、新たなロールモデルとしてのあのは、原義のIDOLであるのかもしれない。
何が悲しいって売れっ子バンドマンの交際相手としてすっぱ抜かれたことによって今までになくあのちゃんの名前が売れたことが残念でしかたない いつかとんでもないアーティストとして世間を騒がせるに違いないと思っていたので
— 明るい生活 (@soyjoyoic) April 24, 2020
あのときのわたしへ よかったね
おわり