明るい生活の暗い日記

スピードが足りない

いつまでもこんなところで遊んでちゃダメだよ

明け方の塩小路を歩く。京都は盆地なので夏は蒸すとよく言われるが、5時台ともなるとまだ日が昇りきっておらず、酷暑が続く今日においても相対的な涼しさがあり心地よい。

京都で生まれて29回目の夏が来た。それは同時に、京都で過ごす29回目の夏でもある。お出かけは勿論のこと、就業先や学籍を置いた機関が京都以外のそれであった期間もあったが、その間も拠点は京都にあり、わたしの半生は京都と共にあったと言っても過言ではない。しかし、それは積極的な選択ではない。太いとは言わないまでも細かない実家と父方母方双方の家が京都にあり、偶々多少勉強ができて中学受験をさせられたら自動的に京都の大学に送り込まれてしまい、就職活動に失敗して進んだ大学院も当然京都で、修士を取ってまでしてする仕事がパートなので端的に経済的に苦しく、京都を出る機会を悉く逃し続けただけなのだ。消極的京都である。そんな生活に終止符を打たんとして、近しい人にはあれこれ尋ねたり不安を漏らしたりしている今日この頃ではあるものの、どのように落ち着くかはまだ不透明だ。様々な面において、30歳までには落ち着きたいとは思っているのだが、果たしてうまくいくのだろうか。うまくいってもらわないと困るのだが。

仔細が思い出せないテキストがある。印象的な部分は覚えているが全体の論旨が思い出せないもの、論旨は覚えているがその筆致が愛おしかったもの、より断片的な記憶しか残っていないもの等、様々な形態のそれがある。高校の現代文で読んだ、"昔は成人すると自動的に大人になるような共通認識があったが、今日では成人してようやく徐々に大人になっていくというような様相を呈している"という旨の文章は、どういった文脈からそのような記述に至っていたのか。"死ンデレラ・リバティ"という文字列が脳裏に焼き付いて数年が経つが、あれは一体何だったのか。お下品にもスクリーンショットで残してはあるものの、一字一句違わずにGoogle検索にかけてもヒットしない、もはや誰が書いたのかもわからない魅力的なテキスト。そういったものの一つに、大学の先輩がサークルのパンフレットに寄稿したエッセイのようなものがある。

学生時分に所属していた自主映画サークルでは、上映会の度にパンフレットを作成しており、そこにはサークル員による映画批評からお前は一体何が言いたいんだと問い詰めたくなるようなどうしようもないチラシ裏の落書きまで、様々な記事が掲載されていた。新人勧誘を目的として書かれたものではあるものの、それがどれ程効果的なものであったかは定かではない。しかし、曲がりなりにも人様に読んでもらうテキストとして、この人はこういうものを書くのだなと興味深く読んでいたことを覚えている。

件のそれは、1学年上の先輩が名目上サークル活動を終了させるB3の学祭(尤も、大半のサークル員がB4以降もBOXへ顔を出し、後輩に気を遣わせながら偉そうな顔をしたり、映画を撮ったりするのだが)の上映会に寄せて書かれたものだった。内容は大意として、"無為に過ごした大学生活、ひいてはサークル活動であったが、これで一応最後になるので何かを書こうと思うものの、何を書けばいいかわからない。こうしている間にも締切の時間は迫っている。もうすぐ夜が明ける。なのに書けない。困ったなあ。"というようなものであったと記憶している。これは上記の分類でいうところの、論旨は覚えているがその筆致に愛おしさがあったものに該当する。断っておくと、先輩はその自認とは裏腹に積極的に撮影に取り組んでいたサークル員で、この人が撮影班にいれば安心だというような共通認識がコミュニティ内にあったと記憶している。自ら本を書き監督を行うというプロセスに対しては及び腰であった為、その点と2留するような学業面を指してそのような記述となったことは容易に想像がつくものの、少なくともサークル活動においては非常に頼もしい先輩であった。

サークル活動の終了と記事の締切をパラレルにしたテキストは、見知った先輩の人柄も相まってやけに印象に残った。今、無性にそれを読みたくて仕方がない。HDDを探せば当時のデータが残っているだろうか。先輩はB5の春から学籍を残しながら東京で働き始め、B6でやっと大学を卒業した。だから、先輩はもう京都にはいない。

明け方に活動していると、偶に当時の先輩のことを思い出すことがあり、今日がその日だった。それは、京都で無為に過ごした時間にどのように終止符を打つべきか、そしてその刻限として薄らと想定していた30歳という年齢が近づきつつあるにも拘らず、どうしたものかと頭を悩ませている自身と当時の先輩を意識的でなく重ねていたからなのだろう。今夜にでも連絡してみようと思う。

おわり