明るい生活の暗い日記

スピードが足りない

221216

激ヤバが突如として阿婆擦れを告白してくる。3年目から「生活さんも阿婆擦れやから似てますね」と流れ弾を喰らう。「初めの頃からなんかそんな感じしてたから驚かないですね。チャラそうというか、いっぱい遊んでそうというか……」とは激ヤバの談。なんだろうな、垢抜けないとか野暮ったいと思われていないことは喜ぶべきだけれど、軽薄な印象を抱かせている点に関しては残念至極としか言いようがない。

ティーンの頃は、性に奔放な人間が放つ色香に対して憧れのようなものがあった。自分には獲得し得ない、デパートの入口に展示されているハイブランド品のようにさえ思えた。そういうものを身に纏っていれば、多くの人に優しくしてもらえ、寂しさは癒えるものだと思っていた。自分がそれになったと気づいたのはフリーターになったあたりだろうか。なんとなく、自身の魅力を相手に伝える術がわかったような気がした。徳井義実が漫才の掴みで「ハンサム過ぎてすみません」と言ってウケを攫っていたのを見て、この構造が使えるのではないかと思ったことがきっかけであったことは覚えている。優しくしてくれる人が増えた。けれどもそれは一晩限りであったり、長期的な関係であっても2番手止まりであったり、そういうことが殆どだった。ハイブランド品のように思えたものは、少なくともわたしにとってそれ程の価値があるものではなかったようだ。にも拘わらず、未だにそのような印象を抱かせる振る舞いを捨てきれていないのは何故なのか。わからない。

性に奔放である自認を持つまでは、自分のことを誠実な人間だと思っていた。誠実を自認する奴が真に誠実かは一旦傍に置き、そう信じて疑わなかった。だからこそ、誠実であることに何の価値があるのかがわからなかった。今の自身に対して、誠実か否かを評することは難しい。わからない、としか言えない。自分なりに精一杯のことをしているつもりではあるが、自分なりだとかつもりだとかの内面はさしたる問題ではなく、第二者にとって誠実に感じられるかが肝要であるからだ。言ってしまえば、わたしの意識なぞどうでもよいのである。

徳井義実ロールモデルとしたことで、表面的な気さくさのようなものは獲得できたように思う。ただ、わたしには徳井のような人としての奥行きに欠けていて、顔と表面的な気さくさだけで性の機会を獲得していただけなのではないかと最近になって思うことが増えた。しがらみなしに肌を重ねる為にインストールした出会い系アプリを動かす気になれない。いつか誰かに芯から熱い眼差しを送ることができるようになるのだろうか。わたしなりの精一杯をやるので、その人なりの精一杯で返してもらえたら嬉しい。

f:id:Halprogram:20221217000003j:image2015年12月16日 出演した自主映画の追加撮影で訪れた若草山

おわり