明るい生活の暗い日記

スピードが足りない

230216

日を跨いでから、友達と電話で喋った。婚姻制度は社会の再生産の為にあるものだろう、という主張をされる。彼のマチズモが父親と似ていて、少し怯える。当初はそういった面が前面に出ていただろうが、現代社会における婚姻はアベックを社会的に認める意味合いの方が大きく、そのような個人の幸福追求が阻害されるような国が栄えるとは到底思えず、同性婚を認めないことは社会の再生産の観点においても本末転倒なのではないか、というような反論をした。これで彼のことを嫌いになるようなこともなく、なんとなく話は流れた。

彼が初対面の人と話すのが苦手だと言っていたので、初対面のていで話してみる。すると、どうも教科書通りの受け答えをしているように思われて、それではあなたらしさとでもいうべき面白さが感じられずつまらないかもしれない、というようなフィードバックをした。思い当たる節があったらしい。2時間ほど喋って眠りに就いた。

就寝前もTwitterのスペースで会話した。墨鼠はんとあすかいはん。墨鼠はんは絵やら写真やら3Dモデルやらブログやら、とにかく人に見てもらうように働きかけていて、エネルギッシュな印象を受ける。ほんでそれらを作品として捉えていて(ブログに関してはそのように言っていなかったかもしれない)、わたしの写真も作品として扱われ、ちょっと待った!となった。なんやろね。他の人がクリエイティビティを作品と称するのは全くもって構わない、好きにしたらいい。ただ、うちが撮ってる写真は単に写真であって、作品ではないと思っていたので、ちゃいますねんいうような話をした。人と会うに際して撮影を遊びの軸にすることは勿論あるけれど、スマホでバシャバシャ写真を撮るあの感じがミラーレスに置き換わっただけというか、そんな高尚なノリでやっていないんだよな。

あと多くの人に写真を見てもらいたいというような欲求もあまりない。被写体になってくれた人と自分の間で味わえたら、それだけで充分だ。この一年程は美容師に「勿体ないから」と強く言われたこともあり、なんとなく撮った写真を公開する習慣をつけていたが、積極的にやりたいことではない。勿論、そのおかげでできた縁もあるので無意味とは思わないが、それはそれとしてだ。

Twitterもhatenablogも、書いて投稿したらそれだけで割と満足している。行為として、羞恥の伴わない排泄のような感覚がある。見知ったアカウントから2,3FAVがついたらそれはありがたく思うが、10も20もついたら結構鬱陶しい。そんなことは稀にしかないし、やめろとも言えないが。他の人がわたしをどう思おうが勝手で、それでも多少好意的に思ってくれる人がいて、その中に興味を惹く人がいたらこの上なくありがたいなというようなスタンスでいる。会話の中で同程度の精緻さで出力できたかは定かではないが、こういう旨を述べたところ「めちゃくちゃ閉じてる」と墨鼠はんに言われた。だからインターネット上であまりお友達ができないんだろうな。念の為に付記するけれど、悪口のような調子の言い方ではなかった。

作品づくりとかやる気ありまへんワ〜というような調子で喋っていたが、自分で撮った知人のピン写真だけを集めた冊子を作って、「この人はここが好きで」「いい歳して喪主という言葉を知らない奴だった」「二度と会うことはないだろうが」等と言いながら思い出話をするのは楽しそうだ、というような話になった。ネット上ではやりづらいので、そういう冊子ができたら墨鼠はんに連絡することになった。ローカルな場で顔を合わせる人とはこの遊びをやれたら楽しいかもしれない。

最近の投稿にしては珍しく1000字以上書いたけれど、Twitterにリンクを貼るのはやっぱ嫌だな。見て見て!ってするの、なんかしんどい。一昨日は泉房穂のリンクを冒頭に貼ることでどうにかツイートできた。泉房穂はまともなことを言っているので。うちに興味があって余裕のある人は、わざわざリンクをツイートせんでも読んでくれているだろうという確信がある。だからツイートする必要性もあまり感じない。こんなもんでええやろ。

おわり