明るい生活の暗い日記

スピードが足りない

それはデートで立ち寄る会計7000円程の飲食店に似て

「何故写真を撮っているのか?」と自問する機会が増えた。撮った写真を友達に送ったら「こんなブスだっけ?」と言われてしまい、何もできなくなったことが直近の思案の発端ではあるが、元よりそういったことはぼんやりと考えていた。お金にしているわけでもないし、積極的にそうしたいわけでもない。クリエイティビティの発露だとも思っていないし、撮ったものを作品扱いされるのもできればご容赦願いたい。

何の為にやっているのかわからないが、楽しいものが趣味なのだと仮定するなら、最近は写真を撮っていてもあまり楽しくない気がしていた。わたしが撮っているのは主に友達の写真なのだが、その友達には容姿端麗とされる20代から30代の女性が多く、消極的に美人ポートレートの土俵に上がらされているような、そんな感覚があった。美人のいい感じの写真なんてものはこの世に溢れていて、そんなものをわたしが撮る必要など無いというのに。

そもそも、何で写真を撮り始めたんだっけか。祖父の遺品整理でHDDから出てきた最後の20年分の写真を見ていたら、自分の人生もこういう風に残ってたらいいなと思ってD-LUX Typ109を買ったんだった。でもそれより前から、写真を撮る習慣自体はそれなりにあったように思う。先の祖父や父親が所謂コンデジでよく写真を撮る人で、小さい頃から写真を撮るという行為が身近にあった。自主映画のサークルに所属した大学時代も、カメラを持っている人が沢山いて、当時の写真が多く残っている。

なんというか、わたしにとって写真を撮るというのは、食事のような行為なのかもしれない。とりあえず腹を満たしたり、偶にいいものを食べたり、そういう違いがその時々である。半ばメモ代わりにiPhoneで適当に撮ることもあれば、90年代の渋谷の女子高生が写ルンですで愛おしい日々を形に残したように小さく軽いカメラで自然だったり少し構えたりしたような写真を撮ることもある。それでええやないの。他人のことなんて知らない。わたしとあなたで写真を撮って、その責任を負う。そういう塩梅でやらせていただこうと思うとります。