明るい生活の暗い日記

スピードが足りない

230713

iPhoneの修理交換でApple Storeへ。2週間程前にiCloudでバックアップを残していたので、今回はあまり困らなかったが、それでも結構不安になるものだな。

職場3でグリーンとボスから平子真子みたいな喋り方やねwといじられる。いやいや、そないでっか?と言うと、そういう感じ!と追撃される。心が社交に向くと京都の陰湿さと河内の品のなさが入り混じったコテコテの関西弁になってしまう。

生まれと育ちが京都で思春期を大阪で過ごした為に、京都の陰湿さと大阪の下品さが入り混じった、嫌な関西弁を使っている自認がある。そのことを強く意識するようになったのは修士課程の頃のことだ。同期と1学年先輩の中で他大から進学した者はわたしが唯一で、この正体不明の異物がどのような者であるかをわかりやすく表明する必要性に早期から迫られているように感じていた。教員や他の院生と積極的に関わる中で浮かんだ差異が、近畿方言の強さだった。思い返せば、父方の実家で大学の自主映画サークルの撮影を行った際には「xxさんって、実家ではすごい京都みたいな喋り方するんですね」と後輩に言われたり、卒業後に訪れた出身高校の教員には「京都の高齢者みたいな喋り方する人だなって覚えてる」と言われたり、かと思えば「ほんまに京都出身?大阪違うの?」と非関西圏の知人に言われることが二十年程の半生の中で度々あった。この喋り方を維持すれば、そういう人として周囲はわたしを扱いやすくなるだろうという打算を持つには十分だった。

果たして、その目論見は成功する。しかし、打算は自身の喋りをよりステレオタイプの近畿方言話者のそれに近づけ、どこか胡散臭くなったように思う。胡散臭さと表裏一体の軽やかさがそこにはあると信じているが、代わりに取り繕う必要のない場においては近畿方言が剥がれがちになるようになった。そういった際は、文語ベースで思考しそれをrawデータのように処理を加えることなく吐き出しているような感覚があり、それはそれで妙な感じもする。程々に近畿方言で喋れる相手はとても安心する。

おわり