ビデオレターの夢を見た。大学のサークルの知り合いが一堂に会して、同期各人に宛てられたメッセージを鑑賞していた。内容は思い出せないが、温かい場になっていたように思う。
母校の自主制作映画サークルには、年に2回ビデオレターを作る慣習があった。卒業するB4に贈るものと、サークル活動を引退するB3に贈るものの2つがあり、其々追い出しコンパと学祭の打ち上げの2次会で上映されることになっていた。どちらも力作ではあるものの、B3時のそれの方がサークル員同士で密にコミュニケーションを取っている時期ということもあり、熱の入ったものであることが多かったように記憶している。
ビデオレターは、普段は言いづらい率直な心証について聞くことができるまたとない機会に思え、いずれ自分が貰う立場になった際はポジティブな印象を持たれていると確認することができればいいな、という気持ちが学生当時はあった。一方で、祝われるだとか担がれることに対して晴れがましく思う気持ちも強くあり、ビデオレターを貰う時期が近くなると「死ね!とか殺すぞ!とかでええから何か言うてくれや!」等とサークル員に対して触れ回り、虚勢を張ることでビデオレターで何と言われようが、そもそもメッセージを貰えまいが気にしないぞ!という態度を示そうとしていたことを鮮明に覚えている。尤も、それが効果的に機能していたかは察するところではあるのだが。
果たして、当時コミュニティの中心に居座っていたわたしは、多くのサークル関係者からメッセージを頂戴した。友人のように思うと言ってくれた人、腐しつつも親しみを込めた言葉を寄せてくれた人、人となりは好かないが能力を買っていると言ってくれた人、色々なメッセージがあった。印象的なものに関しては、今でも思い出すことができる。晴れがましさから居心地が悪かったものの、本当に嬉しかった。
後年になって、友人との会話の中でビデオレターが話題にあがった際に見返すことがあった。そこには懐かしさこそあったものの、残念ながら当時の感動が蘇ることはなかった。個人が送ってくれたメッセージは嘘偽りがないものであると信じたい一方で、それらのメッセージがサークル員が集まる打ち上げの会場で上映されていたということに、違和感を覚えたのだ。これでは、対人関係の成績表を他者と比較し易い形で衆目に晒されているも同然なのである。B1やB2の頃に感じた、「この人にはこんな良いところがあると他の人は思っているのだなあ」という素朴な感動は、まやかしだったのかもしれない。輝かしい思い出だったそれは、姿形はそのままに色褪せた何かへと変容していった。
いつからか、集団が苦手になった。規模や効力の大小はあれど、個対個では生じ得ない力動が発生する。それは時に予想だにしない楽しい化学反応を見せることもあれば、ある人にとっては好ましくない場の力として発現することや、政治とも換言できる其々の思惑が絡み合った難儀な代物と化すこともあるだろう。なんというか、そういうのに疲れた。その人だけを見ていたい。そんなことを何年も思っていたら、あらゆるコミュニティから離脱してしまい、社会とわたしを結びつけるものは労働しかなくなってしまいましたとさ。みんなでワイワイするのはサイコー!!!ビデオレターに対して誤用の意味での穿った見方をするだなんてサイテー!!!人からの厚意と好意は素直に受け取りましょうね!!!
おわり