明るい生活の暗い日記

スピードが足りない

230121

大竹がツイキャスでお料理をしていたのでその様子を見守りながらお喋りをした。しりしりという、はじめて耳にするものを作っていたのが面白かった。しりしり、名前が可愛い。大竹は一見ぶっきらぼうなようで、かなり優しさのある人なので好きだ。応援したくなる。

現代思想入門を読んでいて、フーコーが説いた近代的無限性が涅マユリのザエルアポロ批判とそのまま重なることに気づく。

表象空間から解放され、自身の謎めいた厚みのなかに引きこもることによって、事物は、認識に対して決して完全には与えられないものとなる。そして、そのように表象から一歩退いた場所に指定された事物が、まさにそのことによって、ありとあらゆる認識の可能性の条件として自らを差し出すことになる。自らを示すと同時に隠す客体、決して完全には客体化されえぬ客体こそが、「自らを表象の統一性の基礎として示す」ということであり、ここから、我々は、そうした基礎への到達を目指す「終わりのない任務」へ呼び求められるのである。

慎改康之『ミシェル・フーコー:自己から脱け出すための哲学』75頁

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f:id:Halprogram:20230121215021j:image久保帯人『BLEACH』35巻10-12頁

慎改の論をBLEACHの語に置き換えれば、科学こそが、決して完全には客体化されえぬ客体であり、マユリはそこへ到達せんとする終わりのない任務に快楽を見出していることとなる。マユリがフーコーであるなら、ザエルアポロは古典主義時代なのか。『言葉と物』だけでフーコーを語ることは到底できはしないが、やはりなんというか、哲学というものは考え方を柔らかくしてくれる面があるなと思わされる。あと孫引きはあんまよくないね。ちゃんとした文を書くときは原典にあたろうね。

reiuと今度の撮影の仔細を詰める。「わしハートにまんこ5個ついとるさかい」言うたら「さかいって」と京都弁でウケられた。わしのまんこ5個を返せ。「○○の包容力はハートじゃなくて技術だからね」と評されたのが面白かった。

今日はセブンのキャベツが在庫たっぷりだったのでモリモリ買ってモリモリ食べている。キャベツは最高。明日髪切りに行くのだるい。やだ。起きるの面倒。あとトイレクイックルで職場のトイレ詰まらせてすっごい恥ずかしかった。やだー。

おわり