明るい生活の暗い日記

スピードが足りない

240421

大澤聡の出版記念イベントに参加する。面白かった。メモの印象的な部分を読める形に整えて以下に載せる。コンプライアンス(笑)的にも問題のない内容だろう。

・可処分時間に対する構造変容があった。

・知的なものが分散し、一つの段にまとめることが難しくなっている。

・孤独に文字で人格形成を行う時代は終わり、拡散される声であるところの映像メディアによって行われるようになった。

・大学は過度に官僚的になってしまった。大学生は中間層的なものをアイデンティティとし、社会に対する公的言説と自分との距離を形作る時期。官僚的な空間は褒められても動かないが、クレームが来ると動く。

・学生は大学で自由になるために知識を身につける。企業社会ではまずいことであっても、どこまでできるか試行錯誤する空間ぇあり、他の人に迷惑かけなければ何をしてもいい。自分で自分を教育する、自己決定をできるようになる為のプロセスであり、専門性の獲得は二次的なもの。

・迷惑をかけるなというが、迷惑とされるものの閾値が下がっている。学級委員が言いそうなことを程度を考えずに推し進めるのは太平洋戦争と変わらない。

・学士は公論に参画する社会的責務を感じなければならず、自らの学歴資本を使って得する方向ばかりに流れるべきではない。

・形式的な権威主義、○○に役立つのかみたいなのはクソであり、役に立つという幻想を売っている。

・支配的な価値観からズレた場、人が必要である。アカデミアは制度化されない知的生産性を見えなくする。

・今時の人は、紙で読む行為自体が念頭に無い。それが我々が向き合わなければならない現実。動画ベース的な思考が入ってくる文章が受け入れられるようになるのだろうか。ハラスメントと言われない範囲で、人々に文を読むトレーニングをどのようにさせるか。

・ハラスメント概念も内実ではなく形式化している。形式的にハラスメントと言い続けていると、概念が成り立たなくなる。

・コンテクストが重視された時代からコンプライアンスが重視される時代になった。コンテクストとは、利害関係やコンプライアンスと別で作るもの。コンテクストがデータや数値やコンプラに回収された現状をなんとかしなければならない。公的な場ではどのようなコンテクストでもコンプライアンスに抵触しないことしか言えなくなってしまった。コンプライアンスとは、何に対するコンプライアンスなのか。

・ゼロか百かを他人の意見を収縮させるのはどうなんだ。

・コミュニケーションの中で通用的に用いられる表現にどこまで責任を求めるものなのか、切り抜き的に見るのはどうなんだ。

終演後、増田先生に挨拶をしたら「なんでいるんですか」と言われた。そらこないだ見送ってもろたとこやしな。

交流会があり参加したが、こちらはあまり上手く振る舞えなかった。現代思想的なものに明るくないので、人が言うてることを整理しながら聞いて理解した気になることはできるが、こちらから何かを言うというようなことはできない。現代思想って教養やしな、知っとかなあかんのにな。無教養は恥や。そういった席でうちがたとえば統合失調症患者に対するオープンダイアローグの有用性を説きはじめたらおかしいが、現代思想は我々の日々の営為に密接に関わっているのだから。

中座する際に、配偶者と仲良くするようにと増田先生から言われる。あの人は配偶者となってくれるのでしょうか。渋い笑みを浮かべてお返事した。

しかし、これからどうなるんだろう。どうにかならないと困る。どうにかしないと。

おわり