明るい生活の暗い日記

スピードが足りない

斬魄刀と影(Shadow)の符合

序論

漫画『BLEACH』は心を題材として取り扱った作品である。かの有名なウルキオラ・シファーの発言である「心か」は、それを端的に象徴するものであり、この点に異論を持つ者は多くないだろう。しかしながら、本作に対する論考は数多くあれど、心を取り扱う学問である心理学の観点から本作を読み解くというアプローチは、管見の限りでは殆ど見受けられない。同じ対象を取り扱っているにも拘らず、である。検討の価値は十二分にあるだろう。

本論では、影(Shadow)を中心とした心理学の概念と、『BLEACH』における斬魄刀にまつわる描写の符合を見出す。そして、それらの符合から考えられる作品のメッセージ性及び、アプローチの妥当性を検討する。

まずは、斬魄刀と影の概念を確認したい。

 

斬魄刀とは

死神と呼ばれる、死生による魂の循環を司る霊なる者が所持する刀、それが斬魄刀である。悪霊とされる虚や、善良な霊である整を、生前の罪の程度に応じて尸魂界(世俗的死生観における天国に該当する世界)や地獄へと死神が送る際、あるいは虚や敵対勢力との戦闘に用いられる。概ね日本刀のような形状をしている一方、能力解放に伴い、レイピアや三節棍やモーニングスターと、刀であるかも疑わしい形状へと変化する物も少なくない。また、能力解放とあるように、斬魄刀を用いた戦闘は純粋な剣戟に留まらない。斬撃を飛ばす、氷の竜を生み出す、対象を催眠下に置く等々、その能力は多岐にわたる。斬魄刀の能力解放には2つの段階が存在する。第1段階を始解、第2段階を卍解と呼び、解放を重ねることによってより強大な戦闘力を手にすることができるとされている。

そして、斬魄刀には、バトルアクション漫画における単なる武器に留まらない設定が付与されている。斬魄刀は人格を有しているのだ。以下に作中の描写を引用して、その一例を示す。

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f:id:Halprogram:20220810203538j:image久保帯人BLEACH』62巻54-56項

先の描写は、見えざる帝国の星十字騎士団に所属する滅却師(虚の魂を尸魂界へ送らず滅却する退魔の眷族)である蒼都に奪われた卍解を、死神である日番谷冬獅郎が取り戻した際の、斬魄刀・氷輪丸との会話である。今回は、滅却師と死神が何故対立しているのか、どのような機序で卍解が奪われ、取り戻すに至ったかは一旦傍に置き、斬魄刀が人格を有している(=心がある)ことが理解できれば不足がない。

そして、斬魄刀の人格は、所有者である死神の魂(=心)そのものと称しても過言ではない。

f:id:Halprogram:20220810203624j:image久保帯人BLEACH』59巻48項

上記は死神が無銘の斬魄刀・浅打を自身固有の斬魄刀に創り上げるまでの過程について言及した描写である。3,4コマ目の記述が肝要であり、斬魄刀が死神の魂の精髄を写し取ることによって、個性的な能力を持つに至ることが読み取れる。

続いて、死神が斬魄刀始解及び卍解に到達するまでの過程を確認したい。

f:id:Halprogram:20220810203707j:image久保帯人BLEACH』15巻71項

第1段階の解放である始解には精神世界での斬魄刀との対話と同調が、第2段階の解放である卍解には斬魄刀を呼び出す具象化と屈服が必要となるのである。卍解への到達は容易なことではなく、作中に登場する死神の多くは始解のみを習得した上で戦闘を行なっており、始解から卍解に至るには、優れた才覚の持ち主であっても10年を優に超える鍛錬が必要となるとされている。

尚、本論では死神のそれとは成り立ちが異なる破面斬魄刀については扱わないこととする。

 

影(Shadow)とは

分析心理学の祖であるJung,C.G.(1959)は影について、"影はその主体が自分自身について認めることを拒否しているが、それでも常に、直接または間接に自分の上に押しつけられてくるすべてのこと──たとえば、性格の劣等な傾向やその他の両立しがたい傾向──を人格化したものである"と述べている。簡潔ではあるものの、これだけでは今ひとつ概要を掴み難いかもしれない。河合(1987)はこれを更に、"人はそれぞれその人なりの生き方や、人生観をもっている。各人の自我はまとまりをもった統一体として自分を把握している。しかし、ひとつのまとまりをもつということは、それと相容れない傾向は抑圧されたか、取りあげられなかったか、ともかく、その人によって生きられることなく無意識界に存在しているはずである。その人によって生きられなかった半面、それがその人の影であるとユングは考える。"と説明した。恐れ多くも筆者なりに噛み砕けば、影とは個人が選択しなかった全てであり、個人にとって許容し難いもう一人のその人なのである。

投影という語は、最早心理学用語の域に収まらず、日常的に用いられる機会があるのではないだろうか。「あの作者は○○というキャラクターに自身を投影している」というような塩梅だ。この際に投じられている影こそが、影(Shadow)なのである。

自身でありながら、意識的な自身と異なる資質を持った影の存在は、無意識の内に意識へと働きかけ、困難をもたらすことがある。例えば、いけ好かない他者の存在によって、調子を狂わされることはないだろうか。具体例を挙げるとするならば、「あたし、オンナオンナした女って苦手なんだよねえ」と愚痴をこぼす女性がいたとする。"オンナオンナ"というのは、ある種の女性性のひけらかしを指しているようだ。本人は相当に参っている様子だが、傍目にはこの女性もまた自身で言うところの"オンナオンナ"した部分を持ち合わせており、槍玉に挙げられていた対象と全く同じと言えないまでも、同じように見える部分がある。これは分析心理学的に言えば、他者によって狂わされているのではなく、他者に投影した自身の影によって狂わされているのである。この場合、影であるいけ好かないものが自身にもあることを認めることによって、狂わされた調子が好転することが考えられる。このように、他者に投影した影が自身のものであると認めることを影の引き戻しと呼び、無意識の存在である影を意識に取り込むことを統合と呼ぶ。統合は統合であって、いけ好かない影そのものとなる同一化とは異なる点に注意が必要だ。この統合によってその人が元より持っていた個性が内から開花し、他の何者にも代え難いその人が本来そうある自己へ向かっていくことを個性化と呼ぶ。松代と渡辺(1995)が訳すところによれば、Jung,C.G.は個性化について、"個性ということばが私たちの内奥の究極的で何ものにも代えがたいユニークさを指すとすれば、自分自身の自己になることである。したがって、「個性化」とは、「自己自身になること」とか、「自己実現」とも言い換えることができるだろう。"としており、筆者の記述とも合致するところである。

後年のユングは"影とはただ無意識全体なのだ"とも発言しており、その定義は明確でない部分もあるものの、上記の内容が概要となる。

 

斬魄刀と影の符合

斬魄刀の項で述べたように、その人格は所有者である死神の魂そのものであると言える一方で、所有者たる死神の自我とは異なる意識を持っていることは、先に引いた日番谷冬獅郎と氷輪丸の会話からも明らかである。死神の魂そのものでありながら、全くの同一ではない存在である斬魄刀。これは、その人でありながら異なる道を歩む影と非常に似通った存在であると言えないだろうか。

f:id:Halprogram:20220810193531j:image久保帯人BLEACH』26巻121項

上記は破面篇において、現世への先遣隊である綾瀬川弓親と松本乱菊斬魄刀との対話を試みるシーンである。これは典型的な影の描写と言えるのではないだろうか。弓親も乱菊も自身の斬魄刀に対する不満を述べている一方で、それらの不満は本人が意識していない自分自身であるという指摘を受け、苛立ちを示しているのである。そして、彼らの受け答えに見られる影の否認は、盲信的と言うよりは痛いところを突かれたが故の軽口のように見受けられ、これこそが対話と同調であるところの、影の統合の過程ではないだろうか。自身の影がどのような形のものであるか、それを知っていく過程こそが対話と同調であり、護廷十三隊の多くの隊士が習得するところの始解なのではないかと筆者は考える。

統合の過程で始解に至るのであれば、個性化は卍解に該当すると言えるのではなかろうか。作中で描写された卍解は、それぞれが唯一無二であり、"究極的で何ものにも代えがたいユニークさ"を持つものであることに疑いの余地はない。このように考えると、卍解に必要な具象化と屈服によって斬魄刀を我々の世界に喚び出し認めさせる過程が、投影の引き戻しによる個性化と重なって見えてはこないだろうか。

冗長になったが、斬魄刀が影と同性質を有しており、対話と同調及び具象化と屈服が影の統合や個性化と近似したプロセスであり、それを果たすことによって卍解(ないしはそれに準ずる強大な力)の習得へ至るのではないか、というのが本論における仮説である。

この他にも、浅打が多くの死神の魂魄を重ねて造られたという経緯(久保帯人BLEACH』60巻183項)に、影を包含した個人的無意識よりも更に深い、普遍的無意識との符合を感じるが、本論では先述の通り影を中心とした記述を行いたい。以下では、作中の個別事例から影との符合を見る。

 

黒崎一護と斬月(ホワイト)

漫画本編において、斬魄刀と影の符合を最も色濃く描いたのは、このペアを置いて他にないだろう。

破面篇序盤において、一護は斬月そのものである白い一護の姿をした内なる虚、ホワイトによって意識を飲み込まれつつあった。

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f:id:Halprogram:20220812024248j:image久保帯人BLEACH』22巻57-59項

このホワイトこそが一護の影であり、その影の暴走によって、一護本来の優しさが感じ難い言動が見受けられるようになり、それが周囲との軋轢となるのである。

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f:id:Halprogram:20220812024953j:image久保帯人BLEACH』22巻113,114項,23巻68-71項

この影の暴走による虚化を抑えんとして臨んだ内在闘争に際して、ホワイトは"戦いを求める本能"について一護に説いていた。

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f:id:Halprogram:20220810225404j:image久保帯人BLEACH』25巻122,123項
BLEACH』の読者であれば知っての通り、一護は甘さにも似た優しさを持った人物であり、ホワイトの言うような殺戮反応とはかけ離れた性格を有している。この点からも、ホワイトが一護の影として描かれているとすることは無理筋ではないだろう。

f:id:Halprogram:20220810225854j:image久保帯人BLEACH』25巻147項

かくして、一護は自身の"戦いを求める本能"を認めることによって、ホワイトとの内在闘争に勝利し、虚化による強大な戦闘力、そして仲間を気遣う一護本来の優しさを獲得したわけであるが、これは影の統合による個性化に他ならないだろう。

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f:id:Halprogram:20220812025727j:image久保帯人BLEACH』32巻47-49項

その後も一護は、折に触れ自身の影である斬魄刀と対峙し、統合と個性化を果たしていく。

f:id:Halprogram:20220811005101j:imagef:id:Halprogram:20220811005105j:image久保帯人BLEACH』48巻136,137項

無月習得時のそれは非常に象徴的で、影そのものである斬魄刀を受容することで、藍染惣右介を圧倒する力を手に入れるに至った。その際の発言が以下のものである。

f:id:Halprogram:20220811015740j:image久保帯人BLEACH』48巻138-139項

この、"俺自身が月牙になる事だ"というのは、先に引いた河合の"「個性化」とは、「自己自身になること」とか、「自己実現」とも言い換えることができるだろう。"という箇所と、見事に一致しているように思えて仕方ないのは、筆者だけではないだろう。かくして、空座町を護るという一護の目的は果たされる。これが一護の自己実現でなければ、何とするか。

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f:id:Halprogram:20220811020349j:image久保帯人BLEACH』61巻37,38項

千年血戦篇では、破損した天鎖斬月を打ち直し、斬月が自分自身であると認めることによって、新たなる斬月を手にするに至った。この際の『THE BLADE IS ME』というタイトルは、正しく影との統合を表していると言えるだろう。こうして、虚の力、滅却師の力、死神の力が入り混ざった力を以て一護は打倒ユーハバッハに奔走する。その過程で披露した、月牙天衝と混ざり合った王虚の虚閃や、滅却師の弓を思わせる意匠の天鎖斬月、そしてひび割れた天鎖斬月の中から出た、全ての力が一振りに収められた真の斬月といったものは、一護の個性そのものに他ならないだろう。

また、これは余談になるが、一護と斬月とホワイトの関係は、自我と超自我とイドの関係と酷似している。S.Freud.が唱えた構造論である。S.Freud.の精神分析は、Jung,C.G.の分析心理学と立場を異にした学派である為、本論ではこれ以上の言及は行わないが、『BLEACH』を読み解く手がかりになり得ると思われる為、今後の検討事項としたい。

 

日番谷冬獅郎と氷輪丸

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f:id:Halprogram:20220811024939j:image久保帯人BLEACH』32巻176,177項

上に引いた描写は、流魂街で暮らしていた頃の日番谷冬獅郎である。これらからは、日番谷が冷めた性分でありながらも、雛森桃やばあちゃんと良好な関係を形成するだけの優しさを持った人物であり、"氷のようだ"という周囲の評は日番谷にとって影に該当するものであると推察することができる。当該説明が行われたコマにおいて、影を思わせる演出がなされているのも見逃し難い。

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f:id:Halprogram:20220811024322j:image久保帯人BLEACH』32巻184-188項
やがて日番谷は、自身の内なる世界に氷の竜が存在する事を自覚する。そして、氷の竜を御し、ばあちゃんを護るべく真央霊術院へと進学するのであった。

また、Jung,C.G.は竜が太母元型(母なるもの全般に通ずる、慈しみ包み込むイメージ、あるいは過度な慈しみによる独占や束縛のイメージ)の影であり、水中より出た竜を倒す冒険の物語こそが英雄の個性化のプロセスだとしている。

f:id:Halprogram:20220811042710j:image久保帯人BLEACH』32巻190項

ばあちゃんが日番谷を支配する存在とまで言い切ってしまうと違和感があるかもしれないが、この描写からは、彼女が日番谷を家に留める機能を有しており、彼の個性化を阻んでいた面があったことが読み取れる。氷と太母の2つの影を統合した日番谷の活躍は、『BLEACH』の読者には説明するまでもないだろう。

 

更木剣八と野晒

更木のそれは非常に明快で、野晒であるところの草鹿やちるは卯ノ花八千流が影となった存在だろう。憧れや願いと換言しても良いかもしれない。複雑なようだが、更木による白い影(影の中でも理想的なもの)の投影がなされている存在が卯ノ花八千流であり、更木自身の影が草鹿やちるなのである。

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f:id:Halprogram:20220811193828j:image久保帯人BLEACH』13巻139項,59巻60項

好戦的な更木の斬魄刀が女の姿をしているというのは、更木のアニマ(男性の内側に潜む女性のイメージ)として卯ノ花があった為だろう。

あるいは、卯ノ花は更木にとって太母の影でもあったのかもしれない。それは、力を封じる枷となり、長きに渡り更木を支配したが、無間での斬術の手ほどきによって解き放たれることとなる。卯ノ花の死を成長の為のイニシエーションとし、母なる大地との訣別を果たすのであった。このような小難しい文言を並べずとも、卯ノ花の死に際に子を諭す母親の面影を、読者の諸兄姉も感じていたのではないか。

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f:id:Halprogram:20220812043143j:image久保帯人BLEACH』59巻122,123項

尸魂界篇での一護との戦いも非常に示唆的だ。

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f:id:Halprogram:20220811200015j:image久保帯人BLEACH』13巻115,116,119,120項

更木は力を望みながら、力そのものである影の力を信じずに戦いに臨んだことによって、影の力を借りた一護に敗北を喫した。更木の影が力そのものであるとするならば、力を合わせようとしない更木自身の振る舞いに対して、悲鳴をあげてしまう程の悲痛な思いがあることは想像に難くない。更木は後に両手で斬魄刀を振るう剣道によってノイトラ・ジルガから勝利を収めているが、影である斬魄刀を受け入れずに半分の力で戦う姿は、片手で斬魄刀を振るう姿と重なって見えるようだ。

また、ジェラルド・ヴァルキリー戦での描写も見逃すことができない。

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f:id:Halprogram:20220811211639j:image久保帯人BLEACH』73巻95項,126項

野晒の解放と共に姿を消していた草鹿が突如霊王宮に現れ、窮した更木に力を与える。この描写によって、斬魄刀の力は更木自身の力であることが明らかになった。これは影の統合が個性化によって更木が憧れた力の獲得と至った見て良いのではないか。統合の字を体現するかの如き、身体の変容もまた象徴的なものに思える。また、草鹿が登場するコマが黒い枠で描かれている点も、影の世界を思わせる。

 

檜佐木修平と風死

漫画本編では出番が少なかった檜佐木だが、成田良悟による小説『BLEACH Can't Fear Your Own World』にて、風死を屈服させ卍解に至った際の描写は、これまでの事例と比較にならない程、影への直接的な言及がなされている。以下に、屈服時の風死の発言を引く。

「俺は⋯⋯『ホワイト』や『野晒』の奴ほどじゃあねえが、少しばかり特殊でな。他の浅打の連中よりも、性質が影に近い」

「お前は、死神に憧れて、死神らしい死神になりたいと思ってやがったな。だから、俺の一部があの形になったのさ。命を刈り奪る、あの形にな」
「俺はお前の影だ。お前自身がてめえの表も裏も何もかもを受け入れて、それでも自分の魂に従って命を懸けた時点で、お前はお前の全てを、つまりは俺を屈服させたって事さ。」

久保帯人,成田良悟BLEACH Can't Fear Your Own World Ⅲ』

檜佐木は戦いを恐れる死神であり、己の力さえも恐れ、命を刈り奪る形をした斬魄刀を嫌った。その恐怖が作り上げた死神らしさこそが、檜佐木の影であり、斬魄刀なのである。影との統合を果たした檜佐木の卍解は、『Can't Fear Your Own World』を読んで確認されたい。

 

考察とおわりに

上記事例より、斬魄刀と影に少なからず符合する部分があることが明らかとなり、筆者には心理学が『BLEACH』を読み解く鍵の一つとなり得る可能性が感じられた。

BLEACH』は、勇気がテーマとなった作品である。それは、『DEATH & STRAWBERRY』での藍染惣右介のモノローグや、一護と織姫が息子に一勇と名付けたことからも明らかである。

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f:id:Halprogram:20220811220902j:image久保帯人BLEACH』74巻226,227項

では、斬魄刀が影であるとすることによって打ち立てられるメッセージとは何か。これもまた勇気なのではないかと筆者は考える。

人は選択の中から知的枠組みを築き上げ、日々の様々な選択を無意識のままに経験則から行う。選ばれなかった、あるいは選ぶことができなかった影は、意識にとって未知の存在であり、時に牙を向けられたように感じることがあるだろう。存在を認めてしまえば、自分でいられなくなってしまうのではないか、という恐怖はホワイトとの内在闘争の中にあった一護が感じていたものと同じ類のものなのである。果たして一護は未知なる存在である仮面の軍勢の下へと出向き虚化を習得、本来の優しさをより確かなものとする為の強大な力を手に入れた。影である戦いを求める本能を認めたことで、彼の意識が求めるみんなを護って戦うという他に変え難い力を、である。

BLEACH』の読者は一護と違い、世界を護る英雄でもなければ、斬魄刀を振り翳し虚と戦うこともないだろう。しかし、絶え間なく流れ行く日々は、まるで戦いのように待つことをしてくれない。認め難い思いをすることもあるだろう。そんな時に、もう一人の自身である影であるところの斬魄刀と語らい、力とする勇気を持ってはみませんか?と優しく語りかけるようなメッセージを、『BLEACH』からは感じて止まないのである。

 

引用文献

久保帯人(2001-2016)『BLEACH集英社

Jung, C.G.(1959)『The Archetypes and the Collective Unconscious.』 Collected Works

河合隼雄(1987)『影の現象学講談社

Jung,C.G. 松代洋一,渡辺学訳(1995)『自我と無意識』第三文明社

久保帯人,成田良悟(2018)『BLEACH Can't Fear Your Own World Ⅲ』集英社