他者をどうこうしようというような強いエネルギーがない。他者に働きかけたところで、自分の力は及ばないと知っているからだ。代わりに、目に見える行為と耳に聞こえる約束だけを信じてきた。しかし、それも信用に足りるものではないのかもしれないと、最近になって思い始めた。
次の日がバイトだとかなんだとか言っていて、日が出ている時間に会おうと言っていたのに、外に出て人と会う予定があると何もできなくなって…と昨日遊ぶ約束を反故にしてきた友達が、今日他の人と楽しそうに遊ぶ様子をインターネットで報告していて、なるほどな…と声が出た。多分、わたしが余程嫌だったんだろうな。怒りを掻き消す申し訳なさが押し寄せて、力が入らなくなった。こうして軽んじられる程度の価値しかない人間なんだと思うと、友達だと勝手に思っていたことが恥ずかしくなってくる。こんな日記は読んでいないだろうけれど、友達だと思ってすみませんでした。
何かを反故にすることに対して、人はあまり抵抗を覚えないことが、最近になってようやくわかってきた。目に見える行為も、耳に聞こえる約束も、触れた手も、重ねた肌も、その場限りの意味しか持たない。対象は永続するものではなく、昨日セックスした相手が愛の言葉を囁いてこようが、次があるという保証はどこにもないのだ。
では、何を信じればよいのか。ただ目の前に起こることを信じれば良いのだ。今この瞬間を共に過ごしている人とは、今この瞬間を共有することができている。食事をしている人は、語らっている人は、手を取っている人は、隣で寝ている人は、ただそれを一緒にしてくれている。「今度はお泊まりしよーね」と交わした口づけも、その場の盛り上がりを共有したに過ぎず、口づけ以上の意味を持たない。
人の思いは刻々と移ろう。自分自身がそうなのだから、他者のそれをどうこう言う権利なぞあろうはずもない。それでも、ほんの1回きりであったとしても、約束を守ってくれるのであれば、これほど嬉しいことは他にない。
2018年8月15日 新潟
おわり